Novel

Just One Second

 1

 紫煙を吐きながら、さっき聞いた言葉を反芻する。
 ――ああ。あいつな、亡くなったんだよ。
 訊けばもう四年も前のことらしい。家族葬でひっそりと行われた葬式のことを、今日集まっていた元同級生たちは、当時ほとんどが知らなかったようだ。葬儀が終わって伝言ゲームのように伝わり、自分に至ってはついさっき、それが伝わったのだ。
 六年。そう、六年経った今なら、イエスにしろノーにしろ、何らかの答えが出る気がしていたのに。
 高校の卒業式のあと「お前が好きだからもう会わない」と言った、あいつの横顔が今でも忘れられない。自分はあいつに、何も言葉を返すことができなかった。親友だと思っていたあいつが、自分を好きだというのが理解できなかった。ずっと仲のいい友人で居られると信じて疑わなかった気持ちを、裏切られたと感じた。大学に入学したと同時に携帯の電話番号を変え、それまでの全ての友人と連絡を絶った。
 今日の同窓会の開催は、実家に届いた案内のハガキを見て母が連絡をして来たことで知った。出席と返事をして、あいつの顔を思い浮かべた。
 自分に告白をしてきたとき、あいつはどんな気持ちだったのだろうかと、考えた。

 煙草を灰皿に押しつけて、相沢は冷えたコーヒーをあおった。あいつを知っている者たちと話していたくないという気持ちから、同窓会の会場を早々に抜け出てきた。駅に併設しているコーヒーショップにやってきて、もう一時間くらい経っただろうか。家には帰りたくなかった。ひとりになれば、泣いてしまうのではないかという思いから、なかなか家に帰ろうという気持ちにはならなかった。
 吸い終わった煙草が最後の一本だったことにも、相沢は気づかなかった。
 次の煙草を取ろうとしてボックスが空であることに気づき、舌打ちをした。
(煙草を追加しないと)
 イライラが止まない。何かをしていないと気が狂いそうだ。
 自分の手の内にある空のボックスをもてあそびながら、相沢は近くで煙草を売っていそうな場所を思い出す。
「すみません」
 ふと声を掛けられ顔を上げると、洒落た三十を過ぎたくらいの男が、こちらを見ていた。背の高い黒髪の、清潔感のある男である。
 相沢はその男に全く覚えはなく、思わずじっと見返してしまう。
「いきなり不躾かと思いますが」
 そう言うと男は紙ナプキンを差し出した。受け取ると、そこには携帯の番号が書かれている。
 そんなものを渡される意味が、相沢には分からない。
「なに?」
 訊くと、男は控えめに笑んだ。
「もし気が向いたら、こちらに連絡を」
 意味が分からず、相沢はその携帯番号を見つめたままで居た。男は言葉を続ける。
「あなたと親しくなりたい、という意味です。あなたにもその気があるなら、ご連絡いただきたい」
「なに、ナンパなの?」
 相沢の言葉に男はうなずき、そうですね、と答える。
「俺をナンパするなんて物好きもいるもんだな」
 相沢は笑う。そう、タイミングが良すぎて笑えてしまう。ひとりになりたくない、けれどあいつを知っている者たちとも一緒に居たくはない。そんな気持ちを見透かされたのだろうか。
 叶うことなら女性の方が良かったけれど、今は贅沢を言っていられない。
 今一緒に居てくれるなら、誰でもいい。
「今すぐホテルなら付き合うけど」
 相沢の返事が意外だったのだろうか、男は真顔になってしまう。
「そうでないならお断りだ」
 貰った紙ナプキンをぐしゃりと丸め、男のジャケットのポケットに突っ込んだ。男はしばらく相沢を見ていたが、 「分かりました、行きましょうか」
 と了承した。

 相沢は男とホテルに来るのは初めてだった。当たり前と言えば、当たり前かもしれない。男同士で何をどうすればセックスになるのかもよく知らない。
 しかし相沢は、ひとりでこの夜を過ごさなくていいことに安堵していた。この男が今晩一緒に過ごしてくれると言うから、全て言うとおりにするつもりでここに来たのだ。
 男は部屋の隅に荷物を置くと、服を脱いで浴室に来るように言った。相沢は言われた通りにベッドにボディバックを放り投げ、服を脱いだ。ベルトに手を掛けたところで、男が浴室からバスタオルを投げて寄越す。
「女じゃねぇから恥ずかしくねえよ」
「そう?」
 そう言うと、男は浴室に消える。音から察するに、浴槽に湯を張っているようだ。相沢は全て服を脱ぎ終えると、先ほど受け取ったタオルを申し訳程度に左肩に掛け、浴室に向かう。
 洗面所には男のジャケットが無造作に置いてある。見知ったブランドのタグ。少し高額なラインのブランドであることは相沢には直ぐに分かった。けれど見なかった振りをして、浴室へ入った。
 男はジャケットを脱いでデニムの裾を折り返しただけの出で立ちだった。
「さて、いかがいたしましょう?」
 冗談めかして男に訊ねると、男はバスチェアに座るように言った。相沢が従うと、男はシャワーの温度を確かめている。
「じっとしてて」
 男はバスチェアに座っている相沢の髪を濡らし、シャンプーを泡立てて洗い始める。
 相沢はしばらく何も言わずにおとなしく座っていたが、性的なことをされるのかと思っていたので、疑問が口をついて出る。
「なにしてんの?」
「あなたの髪を洗っています」
 当たり前の言葉が返ってくる。
「セックスしねえの?」
「するかもしれませんね」
 なんだろう、この男は潔癖症か何かなのだろうか。相沢が疑問に思いながらもされるがままになっていると、今度は身体を洗い始めた。跳ねるお湯が、男の服に所々濃い染みを作っている。
 洗い終わると、男は湯に浸かるように勧めてくる。相沢は言うとおりにしたが、何だか腑に落ちない。
 男は浴槽のフチに腰掛けて、相沢の顔を見つめている。
「今更ですが、名前を訊いていませんでした」
 男の指が、相沢に向かって伸ばされた。指先だけで触れて、撫でられる。
 相沢は撫でる指を左手でつかむと、今度は親指だけで相沢の唇に触れてくる。
「名前なんて、いいよ」
 相沢が言うと、男は返事の代わりに微笑んだ。
 男の顔をじっと見つめて、相沢は顔を寄せた。すると、男は自然に相沢を受け入れる。唇が何度か重なって、離れる。
(これは女と大差ないな……)
 目を閉じていれば、何も変わらない。
「あなたはセックスしたいんですか」
 男が相沢に訊いてくる。愚問だと思った。
「ホテルに行くって時点で分かんねえの?」
「何か別の理由があるような気がしました」
 男は顔をほころばせて、続けた。
「私もシャワーを浴びます。あなたはベッドに居たらどうです?」
「まあ、このままお湯に入っていたらのぼせるな」
 相沢がそう返事をして浴槽から出ると、男がバスタオルを渡してくれる。それを受け取り身体を軽く拭くと浴室から出て、ベッドに向かう。裸のままベッドに寝転がり、相沢は膝を抱えた。
 自分は今、ここで男を待っている。ひとりじゃない、男が俺のもとに来る。
 余計なことは何も考えたくなかった。自分が弱くなっている気がする。緩んでいる気がする。グズグズになっている気がする。
 十分ほど経っただろうか。相沢は男が浴室を出てこちらに向かってくる足音に安堵した。起き上がると、男がバスローブを羽織りながらベッドサイドに座った。
「本当にしますか?」
「初心者なんでお手柔らかに」
 相沢は男とベッドの上で向かい合う。初めてのことだから、どこか不思議な感じがする。
 男は相沢の額に、目尻に、頬に、唇にキスをする。首筋、鎖骨、手の甲に指先。そして男は相沢の右手を陰部へと導いた。相沢は自身の陰部に導かれた手をじっと見つめる。
 そして男の顔を見上げると、男はにこりと笑った。
「取り敢えず、自分のものは自分で勃たせてください。私も少しは手伝います」
 思いがけない言葉に、相沢は吹き出した。
 手ひどく扱われるのは覚悟していた。けれどまさか、自分でしろと言われるとは思わなかった。
 けれど、と相沢は思う。
(快楽でも、羞恥でも)
 例えそれが屈辱だとしても、自分の心を目一杯に満たしてくれるなら何でもいい。
 男は相沢に顔を寄せ、耳元で囁いた。
「握って、動かして」
 低くて、色っぽい声に、相沢はドキリとする。
(俺がもし女だったら、喜んで股を開きそうだ)
 この男は、知っている。
 相手をどうすれば落とせるのか、知っている。
「どうすれば気持ちいいんです?」
「……いい趣味してるね、あんた」
 相沢はそろそろと指を動かす。人前で自慰なんてしたことはなかった。
「上下に動かすだけでいいんですか? 亀頭も、ほら……」
 男の右手が、相沢の手の上から陰茎を刺激する。
 相沢の肩がびくりと揺れたので、男がそれを見て笑う。
「反応してますね」
 芯を持ち始めたその鈴口から、透明な液体が溢れている。
「勃たないかもしれないと思っていたけれど」
 男は首をかしげ、相沢の勃起したものに顔を寄せた。
「裏筋の根元から……ずっと上に舐め上げられると、気持ちが良くないですか?」
 上目遣いでこちらの顔色、反応を窺っている。相沢が緩く動かし続けていた手を止めて、指で、男が裏筋をゆっくりと辿っていく。舌の動きをなぞるようなその手がとてもいやらしくて、興奮する。
 相沢の息が上がっているのを、男も気づいている。直接的な刺激がないのに、相沢のものは完全に勃起していた。
「上出来」
 男は顔を上げると、相沢に唇を深く重ねる。舌で一方的に口腔を犯される感覚が新鮮だった。
「こちらは、あまり?」
 唇が離れると男は、相沢の胸の突起に触れながら訊ねた。
「くすぐったいだけ」
 相沢が答えると、男は残念と言ってベッドサイドにあったローションを手に取る。中身を手のひらに取り出し温めると、その手で相沢の股間に触れる。
「っあ、……あ、あ」
 相沢は思わず声を漏らしてしまい、戸惑う。男の指は巧みにそれを刺激した。ヌルヌルした液体が、快楽を増長させる。
「気持ちいいですか?」
 頷くと、男が再び唇を重ねてきた。陰茎への愛撫にもだえつつ男の舌に応えていると、男のいいようにされている自分が、本当に存在するかどうか分からなくなって、不思議な感覚へ陥ってゆく。
 自身の口から漏れる喘ぎやうめきも、相沢はだんだん気にならなくなってしまった。
「あ、あ、なんか……やば、い」
 一気に押し寄せる快楽に、呑まれてしまいそうだ。
 相沢がぎゅっと目を瞑り、流されてしまえと、快楽に身を委ねようとしたときだった。
 不意に男が、手を止める。
「ちょ、……とめ、んな」
 思わず口から不平が漏れる。相沢が目を開くと、男がじっと自分を見つめている。
「どうしてコーヒーショップに居たんですか?」
「は……?」
 刺すような視線で、男が自分を見つめている。
「コーヒーショップで、あなたはイライラしていた。煙草を何本も何本も吸っていましたね」
 急に出会ったときの状況を、男が口にする。
「時々泣きそうに顔をゆがめて、……うつむいて、また煙草に火をつける。その様子が気になったので、私はあなたを見ていました」
 快楽に浮かされた頭に、現実がよみがえる。
 今日は同窓会だった。
 あいつに会えると思っていた。
 あいつの顔を見たら何らかの答えを今度こそ出せる気がしていた。
 あいつは来なかった。
 四年も前に死んでいた。
 俺は知らなかった。
 四年間ずっと知らなかった。
(……知らなかった)
 相沢は脳裏に浮かんだ彼の顔を、打ち消したくて首を振る。
「あっ、や、や……っ」
 男が焦らすように、再び指を絡めてくる。
「とてもとても、つらそうだなと思いました」
 快楽と忘れたい現実が綯い交ぜになる。息が上がって、何が何だか分からなくなる。
「なんなん、だよ……っ」
 相沢がそう言って男を睨みつけると、男は少しだけ意地悪そうに唇の端を引き上げる。
 視界がぐらぐらする。思考がまとまらない。ゆるゆる与えられる性的な快楽と、受け入れがたい現実とが、ぐちゃぐちゃになっている。
「ふ……っ、あ、あ、あ……っ!」
 気づけば強烈な何かに、意識を引きちぎられた気がした。
 射精して、男の手を汚していた。相沢は自身の身体を支えきれず、促されるまま男の身体にもたれかかる。
「…………」
 自分の目から涙がこぼれ落ちていることに今、気づいた。
「何があったのかは、知りませんけど」
 男が穏やかな声で、相沢に告げた。
「大人になるっていいことばかりじゃありませんね。ごまかすことができるようになってしまう」
 相沢はその言葉を聞いて、ゆっくりと目を閉じた。
 高校の卒業式で、あいつに何も答えを返せなかったことを、ずっとずっと後悔していた。あいつの自分への気持ちにびっくりしたし、裏切れられたと思った。
 でももう会わないなんて言って欲しくなかった。
 あれが最後の別れだなんて、……信じたくなかった。
 男はそのあとは何もしてこなかった。
 失ったものは二度と戻ってこないのだと、相沢はひとしきり泣いて、眠った。

 男とは翌朝早朝、別れた。結局名前も連絡先も交わさなかった。
 日常へと戻ると、同窓会のことも男に会ったことも、現実ではなかったような気がした。
 高校の同級生たちとの連絡先が携帯に残っていることでかろうじて、同窓会はあったのだ、という証拠が残った。しかし男については、相沢の記憶以外に何も痕跡を残していかなかった。
「ま、そんなもんか……」
 独りごちて、高校のアルバムを手に取った。あいつに「もう会わない」と言われてから今まで、一度も開けていなかった。あいつの写真は携帯からも全て消去したし、現像してあったものも捨ててしまった。
 相沢は、怖かったのだ。写真を見ることで、あのときの様々な感情がよみがえってくるのではと思った。ただ、この卒業アルバムだけは、捨てなかった。
 アルバムを開けると、ページの端で自分とあいつは肩を組んで笑っている。大勢の友達と一緒に、バカみたいに笑っている。
 相沢はその写真を見て、ひとりで笑った。
 あいつの写真を見て笑えたことが嬉しかったけれど、あいつがそばに居ないと言うことが、どうしようもなく寂しかった。
「死ぬなんてバカだろ……」
 どうしようもなく、寂しかった。

* * *

 2

 相沢が腕時計を確認すると、約束の時間の五分前だった。店のバックヤードで次月のシフトを組みながら、新しいエリアマネージャーを待っていた。
 相沢は「スリオンジュ」というアパレルブランドの、ある店舗の店長を務めていた。大学の時のバイト先が同じ会社の別ブランドで、そのまま社員登用されて二年経つ。九月の人事異動でエリアマネージャーの異動があり、その新しいマネージャーがこちらの店舗に様子を見に来ると少し前に連絡があった。
 パソコンの画面を見ながら、次のマネージャーはどんな人物だろうかと考えていた。
 できればあまり店のことに首を突っ込んでこないタイプが良い。それこそ意見は受け入れるが、余計な口出しは不要であると思っていた。
 ふと、バックヤードの扉が開く音ともに、スタッフの声が聞こえる。
「こちらです」
「ありがとう、あとは大丈夫です」
 待っていた相手が来たようだ。バックヤードの入り口を振り返ると、奥にやって来る相手と目が合う。相沢はまじまじと相手の顔を見てしまった。
 先日一緒にホテルに行った男が、そこに居た。
 あれは、半月ほど前のことだっただろうか。かつての親友を亡くしたという事実に耐えられず、たまたま声を掛けてきた男とホテルに行った。つらいことを忘れたくて、それから逃げたくて、彼と寝ようとしたのだ。
「お疲れ様です。九月より九州エリアのマネージャーとなります、間宮と申します」
 相沢は呆然と、間宮と名乗った男を見つめている。
「……だからかよ」
 思わず声が漏れる。ホテルで確認した、男のジャケットのブランドを思い出す。
「うちの会社のブランドのジャケットだなって思ったんだよ」
 相沢はぼそりと呟く。あのホテルの出来事が、急に現実と繋がった。
 いっそ夢かもしれないと思っていた、あの出来事。
「店長?」
 間宮の呼びかけにハッとする。取り敢えず気を取り直して、椅子から立ち上がった。
「ソリーゾ店店長の相沢です。よろしくお願いいたします」
 深々と礼をする。
 まさか同じ会社の社員だとは、思いも寄らなかった。しかもこれからこの男は、直属の上司だ。
「……立ち直りました?」
 そっと優しく、彼は問うた。
 あのホテルでの出来事は現実ではないような気がしていた。
 ホテルでは結局、ほぼ何もしなかった。手淫をされて、あとはずっと自分が泣いていただけだ。彼は初めて会ったばかりで相沢に何が起こったのかは当然知らなかったが、相沢が何かから逃げたがっていることには気づいていたらしい。セックスをして信じたくない事実を忘れたいと願っていたのに、彼は意図的ではなく、けれど優しく現実を突きつけた。
 彼は泣き出してしまった自分のそばに居てくれた。何も訊かず、ただ朝まで一緒に時間を過ごしてくれた。
 泣いたことで、親友が死んでしまったという事実をある程度受け入れることができたのは間違いなく、泣かなければそのことを受け入れるのにもっと時間がかかっていたことは、自分自身理解していた。
 だからこそ、不思議な出来事のままにしておきたい気持ちがあった。
「仕事中ですので、プライベートな話はまたの機会に」
 そう相沢が答えると、間宮は了承して相沢に荷物を預け、バックヤードから出て行った。

 結局間宮は店の様子だけではなく、閉店したあとの業務の様子まで見守っていた。バイトを帰宅させ、間宮とふたり最終確認をしてスタッフ専用の出口から退館した途端、「さて、ここからはプライベートな話ですが」と間宮が話を切り出した。突然の切り替えに相沢はびっくりして言葉が出ず、そのまま間宮の言葉を聞いていた。
「このあとお時間はありますか?」
「は?」
 思わず変な声が出てしまう。
「少しお時間をいただけないでしょうか」
 一体何を言いたいのだろう。「プライベートな話」と言っていたので、仕事の話ではないのは確かだ。
「なんの話だよ」
 思わず敬語が抜け落ちる。その言葉に、間宮が静かに笑んだ。
「立ち直ったかどうかを、聞かせてください」
 間宮の言葉に、相沢はじっとその場に立ち尽くした。その問いに答える気はなかった。
 実際立ち直ったかと問われれば、答えはノーだ。けれどそれを相手に聞かせる理由などない。
 黙ったまま相沢は間宮を見ていた。
 この男は、どうして自分に興味を持つのだろう。初めて会ったときも、ナンパみたいな真似をしてきた。
「……まだなんですね」
 間宮は無言の相沢を見て答えを察したのだろう。悔しいけれど正解だった。
 睨むように相沢が間宮を見つめていると、直ぐ近くのスタッフ通用口が開いて、別の店舗のスタッフが出てくる。
「ここだと邪魔になりますので、こちらへ」
 間宮が相沢の背中に手を添え、通用口から少し離れた場所へと促す。通用口から陸橋に上がり、通路の角で間宮は言った。
「あの日私が最初に言ったこと、覚えていますか」
「ナンパの時?」
「あなたと親しくなりたい、と。今でも気持ちは変わりません」
 間宮は笑顔で相沢を見ている。相沢は呆然と間宮の笑顔を見ている。
 この男は一体、何を言っているのだろうか。確かにあの日、少し自分は弱かった。けれど、だからと言って今もそれが必要だとは思わない。
 相沢は笑った。笑って、間宮に言った。
「お疲れ様でした。お先に失礼します」
 それだけ告げて、さっさと駅へ向かう道へと向かったのだった。
 視界の隅で間宮が苦笑しているような気がしたが、どうでも良かった。
 あのホテルでの出来事を否定する気はなかった。あのおかげで、自分は本当に少し、救われた気がした。けれどあの続きが現実としてやって来ると、またそれはそれで怖い気がしていた。親友の死が、……追ってきているような気がしてしまったのだ。
 現実だった。彼に慰められたことも、……親友が死んだことも。

* * *

 3

 指定された場所で、渡されたメモを再度見る。丁寧で綺麗な文字だった。
 ――終了後に、初めて会った場所へ。
 九月に異動してきたマネージャーが改めて挨拶をした店長会で、相沢の近くを通る際そっと机に置かれた紙片。そのメモを渡してきたのは今回異動してきたマネージャーだった。
 以前一度だけ、彼とホテルに行った。そのときは自分の上司となる者だとは知らなかったし、誰でも良いから一緒に居て欲しかった。とても耐えられない悲しみを忘れたくて、声を掛けてきた彼と寝ようとした。
 ホテルに行っただけで、セックスといえるほどの行為はなかったのだが。
(俺も来なきゃ良いのにな……)
 メモを無視したい気持ちもあったけれど、なんとなく指定の場所に来てしまった。煙草を吸いながら窓際の席で行き交う人々を眺める。自分と同じ場所からやってくるから、彼が迷わなければ、必ず目の前の道を通る。ここに居ればすぐに気づくはずだ。しかし待てども彼はいっこうに現れない。
 半分飲んだだけのコーヒーはもう冷えきっている。
(帰ろうかな)
 ばかばかしくなってくる。相手は上司だが、これは仕事ではない。紙片を二つ折りにしてジャケットのポケットに突っ込み、灰皿に煙草を押しつけると、席を立った。
 店を出たら、自分を待たせた男が店の入り口に向かってきているところだった。手を上げて、近くまでやってくる。
「申し訳ありません、遅くなりました」
「遅いのでもういらっしゃらないかと思いました」
 再会してから職場以外で会うのは初めてだった。一応上司なので敬語を使うと、間宮は「プライベートなので敬語は結構です」と笑う。だから相沢は気を遣わずに、改めて文句を言った。
「遅えよ」
「ちょっとある店舗が人員不足で、今後のことを相談していたんです」
「今日来てなかった店舗の?」
 そういえば宮崎の店長が倒れたと聞いた。さらにサブの社員も体調不良で長期欠勤中だとも。
「ええ、いまのところ大分の店舗からヘルプを頼んでいるのですが、人員を回さないといけないのでその相談です」
「ふーん」
 近くに並んで改めて思うが、間宮は背が高い。今日はさすがに店長会ということもあって自分の担当するブランドの服を着ていた。チェックのロングシャツガウンにスキニーを合わせ、モノトーンで色を揃えている。
 二人が所属する営業部のブランドは、二十代から三十代の男女を対象とし、ヨーロッパのトラディショナルなスタイルとトレンドをミックスさせた比較的落ち着いた服を展開している。自分はともかく、間宮のイメージにとても良く合っている気がした。
「なんで俺呼び出されたんだよ」
「明日休みですよね。良ければ食事にお付き合いいただけないかと」
「……シフト見たのか」
 彼は上司だから、自分のシフトを見ることは容易である。
「いえ、店長会の次の日はお休みを入れる方が多いので、あなたもそうかなと」
 まあ一応シフトも見ましたけど、と彼は付け加えた。
(見てんじゃねえか……)
 抜かりないなといっそ感心していたら、改めて彼は誘いの文句を口にした。
「奢りますけど、いかがです」
 間宮は微笑んで相沢を見ている。
「もしかして、食事のあとはホテル?」
「まさか。あなたのお話を聞きたいだけですよ、他意はありません」
 そういわれても、相沢はその言葉を信じられなかった。間宮は笑顔で、嘘を真実のように告げることができそうな気がした。
「あなたがホテルに行きたいのなら、お供しますけど」
 しゃあしゃあと言う間宮に、相沢はため息をつき「ホテル抜きなら行く」と答えた。

「確かにホテルじゃねえけどよ……」
 近くのビルのイタリアンで食事をしたあとに、あと一カ所だけ付き合って欲しいと言われて無理やり連れてこられた先は間宮の自宅だった。駅のすぐそばで、近くに居酒屋もあるマンションだったので、マンションのエントランスに入るまで自宅に連れて行かれていることに気づけなかった。
「私は嘘はついていません」
 肘置きがないソファに座る相沢に、間宮はマグに入った紅茶を出してくれる。
 ソファの張り地は生成りで、ちょっとでも何かをこぼせば汚れが目立つに違いない。よくこんなソファを部屋に置くなと思う。目の前にあるテーブルに雑誌が数冊置かれていたが、それ以外は必要なものすら揃っているか怪しい、整然とした部屋だった。
「あなたと初めて会ったときは住居を決めるためにこちらに来ていたんです。夜の雰囲気も知りたくて外を歩いていて、あの店に寄ったんですよ」
「へえ、会社の金を使って来た先で男をホテルに誘うのか」
 出された紅茶に口を付ける。
 間宮はソファには座らず立ったまま、お言葉ですが、と反論した。
「ホテルに行きたいと言ったのはあなたで私ではありません」
「あんたOKしただろう」
「セックスをしたがったのもあなたです」
 確かに間宮の言うとおりなので、相沢はそれ以上言葉を続けられなかった。
「まあちょっと触っただけ終わりましたけど」
 間宮は相沢の隣に座った。
「近い」
 ソファは男性が三人くらい余裕で座れる幅があるのに、相沢の真横に間宮は座る。思わずマグをテーブルに置いて空いている方に身体を傾けた。不平の言葉を漏らしたのに、間宮は聞いていない。相沢を見つめ、言葉を紡ぐ。
「あのときはあなたと何か話してみたいと思って、ナンパみたいな真似をしました。今もそうです」
「近いって」
「近くに座りましたから近いのは当然です」
 間宮は全く悪びれず、相沢を見ている。本当に調子が狂う、何なんだろうこの男は。
「あなたの話を聞いてみたいんです」
「……俺の何が知りたいんだよ」
「あなたがセックスでごまかしたかった憂いと、泣いた理由が知りたい」
 相沢は眉根を寄せる。そんなことは口にしたくなかった。
 六年前、高校の卒業式で親友の男に告白されたこと。「もう会わない」という彼に何も言葉を掛けられず、ただ裏切られたと感じて彼に関するものを、人間関係も含めて殆ど捨てたこと。それでも何らかの答えを出せると思って彼に会うために同窓会へと行ったけれど、彼は四年前に死んでいたこと。
 親友の死自体は、今目の前にいる男とベッドを共にし泣いたことで、受け入れることができた。けれど忘れてしまったわけではない。卒業式での告白も、同窓会での訃音も、まだ自分の中にリアルに残っている。
 それを口にするなんて、とてもではないができなかった。
「……帰る」
 相沢がソファを立とうとすると、間宮に腕を捕まれる。
「そうですか、残念です。まあ私はあなたの上司ですからあなたの個人携帯の番号も知っていますし、今後も店舗や店長会で何度も顔を合わせます。店で何か問題が起きればあなたは私に指示を仰がなければいけません。別の機会はいくらでもありますので、帰りたいならどうぞ」
 にっこり笑って、でも腕をつかんだ手は離さずに間宮が言った。
 その物言いに相沢は抗議の声すらあげられない。頭を抱えつつも再びソファにもたれ、けれど質問には答えなかった。
「あんたどうして俺にそんなに興味持ってんだよ。俺はそこら辺にいる普通の男なんだけど」
「さあ、なんででしょう。あなたは自分を好きだと言ってくれる女性にも同じことを訊きますか?」
 間宮は腕をつかんでいた手を離してくれる。
「あなたに触れたいと、思ったんです」
 間宮は相沢の頬に触れ、自分の方に向ける。ホテルの浴室で触れたように、優しく。
「あのときの出来事は正直、現実ではなかったような気がしていました。一晩だけだろうと、連絡先も交わしませんでしたから。……でも偶然ってすごいですね」
 間宮が相沢に口づける。相沢は逃げなかったけれど、瞳は閉じない。
「あなたが私の担当店舗の店長だって知ったとき、次は必ず捕まえようと思ったんですよ」
 次の口づけは、舌を差し入れられる。されるがままで相沢は抵抗しなかった。もちろん口づけに応えることもしない。
 目の前の男が、何故そんな言葉を自分に向けるのか理解できない。自分に興味を持つ理由も、何度も自分に口づける理由も、何も理解できない。
 ただ、男が今望んでいることは分かった気がする。
「……結局やんのかよ?」
 口づけの合間に訊ねると、彼は笑む。
 頬に触れていた手のひらで、相沢の右手をとる。口元まで持ち上げて上目遣いに相沢を見つめながら言った。
「……いつかは、あなたにセックスをねだって欲しい。何かを忘れるためでなく、私を求めて、私が欲しいと言っていただきたい」
 そうして、相沢の手の甲に唇を落とした。
 愛の告白みたいだと思い、相沢は動揺する。けれど何度反芻しても、その言葉は愛の告白以外の意味にはとれない。
(セックスがしたいだけかと思ってた)
 こんな行為や言葉を伴うと、本当に愛が欲しいと言われている気がした。
「……何でそんなこと言うんだよ」
「あなたが欲しいからに決まってるじゃないですか」
 間宮は笑んだままこちらを見ている。
「理解できねえ」
「それで結構です」
 間宮は身を乗り出し、ソファに座る相沢に覆い被さるように、もう一度唇を重ねた。間宮の指先が頬に触れ、首筋をたどり、下肢へとゆっくり落ちてゆく。
「けれどまあ、告白はここまでにしておきます」
 間宮の手がベルトにかかる。え、と思っているうちに間宮は相沢のベルトを外してしまう。
「……おい」
 抗議の声を無視し、間宮は相沢のボトムをくつろげる。
「舐めさせて」
「あんた……何なんだよマジで」
 相沢の不服も意に介さず、間宮は下着の中に手を入れてきた。間宮は相沢の陰茎に指を絡め、勃たせようと刺激を与えてくる。
「大人ですから、性を求めるときもあるでしょう? あなたが私とホテルに行ったときのように」
 ふっと笑って、間宮はかがみ込み、相沢のものをためらいもせず口に含む。
「あんたホントに何考えてんだ、……っ」
 間宮を押しのけようと肩に手を置き力を込めたが、間宮はびくともしない。
 口淫は指で高められるのとはまた違う。口腔の温かさと、舌の動きが、何よりも粘膜同士の触れあいが、より性的な行為をしているのだということを自分に知らしめる。
 口に自分のものを含まれているからか、途中からは抵抗する気も失せていた。
 一度ひどい自分を見せてしまっているせいか、取り繕うことすらどうでもいいと思えた。
「……っ、……と、に……」
 本当に、何を考えてるんだろう。
 愛の告白のようなものを口にしたと思ったら、いきなり自分のペニスを舐めたがる。
 相沢は時折漏れる喘ぎを殺さず、されるがままになっていた。実際間宮は上手かった。歯も当たらないし、舌だけではなく口腔内全てで愛撫されている感じで、とても良い。
 ただ与えられる執拗な快楽に酔う。一度は抵抗するために間宮の肩に置いた手は、淫楽のために震えている。
「や、ば……い、から……」
 切れ切れの言葉で、限界が近いことを告げる。綺麗なソファを汚してしまうのではないかと思い、口を離せとは言えなかった。
「も、……むり……」
 間宮を抱き込むような体制で精を吐き出す。声のない自分の喘ぎが、耳の奥でうるさい。
 身体に力が入らずソファに崩れるように身体を横たえる。おい、と声を掛けるとやっと間宮が口を離した。
 息を整えながら、間宮をにらむ。
「……飲むなよ」
 まだ間宮が白濁を飲んでないと思って言った台詞だったが、もう飲みました、と間宮が答えるので思わず声を荒げた。
「はあ……!?」
「一度飲んでみたかったんですよね」
 真顔で言う間宮に、もう諦めのようなものさえ感じる。
「……あんたの興味なんざ知らねえよ、俺が嫌なんだよ」
「そうですか」
 そう言いながら間宮は半勃ちのものを指で弄んでいる。
「まあ、のどに引っかかるし美味しくないですもんね」
「おい充分だろ、……いつまで触ってんだよ」
 間宮の手を下肢から払い、上半身を起こす。間宮も諦めたのか、それ以上は触れてこなかった。
「シャワーを使ってください。あなたが良いなら泊まってくれても大丈夫です。今日はもう、あなたを惑わすような真似はいたしませんので」
 今日は、という言葉が気になったが、もう考えるのをやめたい気分だった。そう、自分も今日のところは、この辺にしておきたい。
「あんたと居ると、人間不信になりそうだわ……」
 そう漏らすと、間宮は笑顔のまま肩をすくめた。

 目覚めて、そこが自分の部屋ではないことが、何故なのかすぐには思い出せなかった。
(結局泊まったんだっけ……)
 ぼんやりした頭で昨日の出来事を思い出す。薄い毛布を払い、ベッドから抜け出した。
 寝室を出ると、隣の部屋のソファで長い足を折り曲げて間宮が眠っていた。カーテンの隙間からは陽光が細く射し込んできている。
 広いベッドだったし別に一緒に寝るくらいはかまわなかったが、一応、と言って間宮はソファで寝ることを選択した。自分の理性をそこまで信用できないので、と間宮が呟くように言ったのを、相沢は聞き逃さなかった。
(本当によく分かんねえ……)
 昨日のやりとりは何だったんだろう。愛の告白のような言葉と、あの行為と。
 ソファを通り過ぎカーテンを開けると、室内が一気に明るくなった。広いバルコニーの向こうには光を遮るような建物はない。窓の向こうをぼんやり見ていると、背後で衣擦れの音がした。カーテンを開ける音と光に、間宮が目覚めたらしい。振り返るとすでに間宮は起き上がって自分を見ていた。
「おはようございます」
 間宮の朝の挨拶を聞き流し、テーブルの近くに置きっぱなしになっていた自分の荷物から携帯を取り出した。間宮は寝具を脇に寄せ立ち上がる。
「あんたも休み?」
「一応、そうですね」
 答えると間宮はオープンキッチンへと向かう。
「コーヒー飲みますか?」
「いや、……帰ろうかな」
 時刻は八時前で、電車も動いている。
「通勤時間帯なんで、人が多くないですか?」
「混むのはこっちに来る方。逆はさほど混まない」
 確かに今日は平日だが、混むのは下り線だ。ここから相沢の自宅へと向かうのに使うのは上り線だった。
「そうですか、残念です。いつか私と同じベッドで朝寝をしてくれることを願ってます」
「それは難しいだろ」
 即答すると間宮は腕を組み、確かに、と言った。
「あまり現実的ではないですね。仕事が仕事ですし」
 仕事のせいで互いの休みが合わないことを、間宮は言っているらしい。
「そっちの意味じゃねえよ……」
 自分が言いたかったのは朝寝をふたりで楽しむような仲にはならない、ということだったのだが、なんだかそのずれた感じが面白かった。
「あんた……」
 前向きだな、と言おうとして気づく。間宮が本当に自分のことを好きだとしたら、間宮は男同士だからといって逃げないのだな、と。自分の親友のように、好きだからもう会わないと背を向けないのだな、と。
 好きだから逃げるのも、好きだから追いかけるのも、……どちらが正しいなんてことは言えない。けれど自分はきっと、追いかけてきて欲しかったのかもしれないな、と思う。
 間宮の言葉を信じるのか、そしてそれを受け入れるのか。その答えは、今は出せない。
 けれど間宮のことは、嫌いじゃない。
 思わず笑んで、荷物を手に取る。玄関へ向かうと、間宮が見送りのためについてきた。
 靴を履いて、間宮を見上げる。
「大変ご迷惑をおかけいたしました。失礼いたします」
「また是非いらしてください」
 笑顔の間宮に、店舗にいるときのように挨拶をして外に出た。
 朝の凛とした空気が、とても心地よかった。

* * *

 4

 少し涼しくなり始めた頃、間宮が店舗巡回に訪れた。間宮の家に泊まった日から十日ほど過ぎていた。
 巡回に訪れたマネージャーである間宮は指示書通りに店内のディスプレイができているかの確認をしてくれている。もう店舗は営業時間も終了のため、レジ締めの作業を相沢は行なっていた。
「クレジットが1円合わない……」
 POSレジとクレジットの端末との間に、1円の誤差。単純にクレジット端末の操作を誤り、金額を打ち間違えたようだ。
「やっちゃいましたね」
 間宮が後ろから伝票を覗き込んで言う。
「ええ……申し訳ありません」
「取り敢えず差額の1円は掛けに入れておいて。過剰請求なら修正をかけてもらえるように館に伝えて」
「はい」
「あと相沢店長、このあと時間ありますか。少し話があります」
 勢いで「はい」と答えて、しまったと思った。仕事の話かわからないのに返答をしてしまった。
「それは仕事の話ですかプライベートの話ですか」
 付け加えると間宮はふ、と笑んで、「両方です」と答えた。
 間宮の場合は仕事の話のようにプライベートを持ち込んでくる。こうなってしまっては仕方ない。付き合うしかないかと相沢はため息をつく。スタッフを帰して、閉店の処理をして自分たちも施設を出た。

 近くのチェーン店である喫茶店に入った。もう夜の十時近い。昼からと言っても明日は仕事だ。こんな時間にコーヒーはいかがな物かと思ったけれど、間宮がホットコーヒーを頼んだので、相沢もそれに倣った。
 煙草の吸える横並びの席に着き、相沢が間宮の顔を見ると、間宮は笑んでいる。元々物腰は柔らかい人物だし、顔も整っているし、多分女性にもてるんだろうなと思う。
「なんでしょうか」
 取り敢えず仕事の話をと思って、相沢は口を開いた。間宮はカバンの中から手帳を取り出し、あるページを開く。
「異動の話です」
 思わず自分のことかと思って、訊き返した。しかし間宮は首を振る。
「いいえ、スタッフの山本さん。十二月八日オープンの新店に異動で店長になられます。そのかわり大分のスタッフがソリーゾ店に配属されます」
「うわー……」
 相沢の口から声が漏れる。スタッフの山本は信頼の置けるスタッフだった。店長になるのもうなずけるが、これからの時期に彼女を失うのはそれなりにダメージがある。
 それを分かっていたのか、間宮は笑顔で言った。
「新しいスタッフの九条さんも優秀ですよ」
「……そうですか」
 慰められるように言われても、セール前の買い控えが始まり繁忙期ではないとしても、やはりショックはショックだった。でも山本にとってはとてもめでたい話なので、それ以上動揺を口にすることはしなかった。
「明日は山本さんは出勤ですよね、この話を私の方からしたいと思いますので、店長も立ち会いをお願いしますね」
「分かりました」
 間宮は手帳を閉じて、「仕事の話は終わりです」と言った。相沢は大きく大きくため息をついて、煙草を取り出した。
「最近いかがですか、プライベートのほうは」
 相沢が煙草に火をつけると、間宮が頬杖をつきながら訊いてくる。
「別に何も変わりねえよ」
 何より以前会ってからさほど時間もたっていない。
「私はあなたのことばかり考えていましたよ。次会ったらどんなふうにあなたに触れようかと考えるのは至福の時間です」
 この男は、どれだけ本気なのだろうか。戯れに言葉を選んでいるとしか思えない節がある。
「ここでそんな話はしたくない。人目が気になる」
「人目なんて私は気にしませんよ」
「そういえば最初に会ったときもそんなだったっけ」
「最初は控えめだったはずですが」
 すっと間宮の手が伸ばされる。相沢の空いた左手を握ってきた。
「おい」
「でも私は人目など気にしません。あなたとのことは恥ずかしいと思ったことはありません」
 左手を撫でるように握ってくる間宮の手を振り払った。
「あんたはそうでも俺は人目が気になる」
「そうですか。でしたらうちに来てお話ししましょう」
「いやだ」
 口だけで抗議をする。
「もう時間も遅いです。うちが近所なのはあなたはご存じだと思います。そこなら人目も気にならないでしょう?」
「まだ電車は動いてる」
「そうですか。でもまだ私はあなたと話したいことがたくさんあるんです。あなたと朝寝をする仲になりたいと言ったのは本気なんですよ」
「はいはい」
 間宮の浮いた言葉にもなんだか慣れてきていた。
「あんたと一緒に居たら何されるか分からないな」
「好きなんだから手を出したくなるのは当然です」
 至極もっともな意見だったので、相沢は次の言葉を紡げなかった。
「是非うちに来てくださいませんか。手は出しませんから、少しお話ししましょう」
「……」
(手は出さない、って本気なのか)
 分からなかったから、念を押すように言った。
「……何もしないなら、行っても良いけど」
 結局自分は間宮のことが嫌いではないんだろうと思った。最初に出会ったときから、今も。
「何もしません」
 間宮は困ったように笑いながら、「誓いますよ」と言った。

 間宮の部屋は相変わらず整然としている。十日ぶりに訪れた部屋は雑誌の配置が少々変わっただけだ。
 相沢は布張りのソファに腰掛け、近くの雑誌を手に取る。オープンキッチンで何かしていた間宮は、しばらくしてソファまでやってくると、相沢の前にカップを置いた。
「どうぞ、ホットワインです。熱いので気をつけて」
「明日仕事だぜ」
「一杯くらいいいでしょう」
 間宮は隣に座る。以前の時みたいに無理矢理近づいては来ない。自然な距離だ。
 あなたは興味ありませんでしょうけど、と間宮は前置きした。
「バツイチなんですよね」
「へえ」
 こんな整然とした部屋に住む男と結婚する女性の身を案じる。自分が男性だからなのか、間宮と結婚するのは少しいやな気がする。性別的な意味ではなく、性格的な意味で。
「一度結婚したんですけれど、元妻にはほかに好きな男ができたらしいんですよね。私のことを好きでない人と一緒にいても仕方ないので素直に離婚しましたが」
「もっと世話焼きたかったんじゃないの」
 間宮はひとりで何でもできる男だ。誰にでも自慢できる完璧な夫。だけど、それが間宮の妻だった女には逆に不満だったのではないだろうか。
「お察しのとおりです。最初は私にいろいろしてもらって嬉しそうだったのにね」
 間宮は苦笑している。
「俺は別の意味でやだな。あんたと一緒にいると、部屋とか散らかしたら怒らせそうで」
「そうですね、そうかもしれません」
「まあ俺は結婚したことないから分かんねぇけど」
「私と一緒に暮らしてみます?」
「やだよ」
 相沢は笑いながら答える。間宮とこういうたわいもない話をするのは、嫌いではなかった。
「後悔とかしねぇの?」
「結婚したことも離婚したことも、それ自体は後悔していないです」
「ふーん」
「どちらも必然だったと思っています。あなたと出会ったことも、ですよ」
 おっと。自分に矛先が向くとは思っていなかった。
「俺のことはいいよ」
「良くないですよ。あなたがホテルで泣くのを見て、とてつもなく手に入れたくなったんです。でもこれは一夜限りのものだからと思って、連絡先を交換しなかった。それでいい思い出にしようと思ったのに、仕事で再会するなんて思ってもみないことでした」
「まあ、俺も……あのときはいろいろあったし、慰めてくれたあんたには感謝してる」
「それは良かった。好きになってくれるともっといいのに」
「それは……」
 言いよどむ。間宮のことは、正直嫌いじゃない。
 けれど好きと言うには、まだ何か足りない気がする。だから正直に相沢は言った。
「俺はあんたのことは嫌いじゃない。でもはっきり好きとは言えない。ホテルで泣いた理由も、俺は話す気がない」
「はい」
「好きになってくれたことはすごく嬉しいと思う。でも今は、それだけなんだ」
「はい」
 結局、想いには答えられない、と相沢は言った。けれど間宮は笑って相沢を見た。
「あなたが私を好きだと言ってくれるまで、私は待ちます」
 間宮は相沢の腕に手を伸ばした。けれど腕には触れずにソファへと手は落ちた。多分ここに来る前に相沢が「何もするなよ」と言ったのを従順に守ってくれているのだろう。間宮の手が手持ち無沙汰にソファをさまよった。
 相沢はそれを見て、少しおかしくなって笑った。
「すぐには想いに応えられない。でもさっき言ったみたいに嫌いじゃないんだ。だからあんたと向き合う努力はする。今はそれでもいいか?」
 間宮は笑って、充分ですと言った。
「でも今ひとつお願いがあります」
 間宮が両腕を広げる。
「あなたを抱きしめてもいいですか」
 相沢は目を見張る。もう、そんなことは勝手にやってくれたらいいのに。わざわざ間宮が了承を得ようとしてくるのはここに来る前に交わした約束のせいだと分かっていたが、うなずくのは恥ずかしくてできなかった。
「勝手にしろよ」
 相沢がそう言うと、間宮の手が自分の方に伸びてきた。肩に触れて、背中に両腕を回された。優しい触れ方だった。
「早く私のこと、好きになってくださいね」
 祈るような声だった。相沢はその言葉に何も返すことができなかった。

 この部屋で目覚めるのは二度目だった。
 結局間宮の部屋に泊まってしまった。薄暗い部屋の窓からは朝日が入り込んでいる。気がつけば隣に間宮がいない。一緒に寝たはずだったがどうしたのだろうと思って起き上がると、近くのデスクの椅子に座っていた間宮が「おはようございます」と声を掛けた。
「おはよ」
 挨拶を返すと、間宮がふわりと笑んだ。朝寝をしたいと願っていた間宮だったから、起きたときも隣にいると思っていた。間宮は立ち上がるとベッドの方にやってきた。
「早く目覚めてしまったので、あなたの寝顔を見てました」
「……なんで」
「好きだからですよ。あなたが私に向き合う努力をすると言ってくれたのは、本当に嬉しかったです」
 間宮はベッドサイドに座ると、相沢の頬に軽くキスをした。
「……」
「近くで寝顔を見ていると襲ってしまいそうだったので」
 相沢は抵抗しなかった。昨日寝る前に、素直に間宮の愛を受け取ろうと決めた。キスも減るもんじゃないし、別にいいかなという気持ちになっていた。しかしどうにも、改めてのこういうやりとりは恥ずかしいものがある。
「……昨日なら襲われても抵抗しなかったかもしれないぜ」
 少しばかりの本音を、間宮が悔しがると思って口にする。
 同衾を許したのだから、それ以上の関係を持ってしまえるかもとは思わなかったのだろうか。
「それは絶好の機会を逃しましたね……」
 間宮は本気で残念そうに肩をすくめた。
「でもまあ、少しずつ進んでいきましょう。時間はたくさんある」
 間宮はもう一度相沢の頬にキスをすると、立ち上がって「コーヒーを淹れますね」と寝室を出て行く。時計を見ると、午前七時過ぎだった。昼からは仕事だから、一度家に戻って着替えなければいけない。相沢はベッドから降りて、リビングへ向かった。
 間宮はコーヒーをドリップしていた。インスタントじゃないところが間宮らしいと思った。
「一度家に帰らないと」
「ああ、あなたはお仕事ですもんね」
「あんたは休みか」
「休みというか、書類をまとめなければならないので事務所に行きます」
 ソファに座って待っていると、間宮がコーヒーを差し出してくれた。礼を言うと、間宮はまた頬にキスをしてくる。
 三度目のキスで、さすがにスキンシップが過剰なのではないかと思った。
「……あんたさ、恋人にはいつもこうなのか?」
「恋人になりたくなりましたか?」
「違うけど……あんたってなんかいちいち恥ずかしいことをしてくるなと思って」
 間宮は立ったままコーヒーを飲んでいる。
「まあ、複雑なんです私も」
 間宮は相沢から視線をそらしつつ言った。
「本当は今すぐにでもあなたを自分のものにしたいんです。だからつい触れてしまいます。でもやり過ぎては駄目だとギリギリのところで理性を保っているんです」
「……そうか」
 なんだか恥ずかしくなって、相沢も間宮から視線をそらした。
「だからこそ早くあなたには私が欲しいと言っていただきたいですね」
「……いや、それは」
 何か反論しなければと思ったけれど、言葉が出てこない。言いよどんだ相沢を見て、間宮が苦笑した。
 相沢はばつが悪くなって黙り込む。手持ち無沙汰で近くにあった自分のカバンから携帯を取り出した。メッセージが来ている。誰からだろうと思って確認したら、先日の同窓会で再会した同級生の女性からだった。『今度ふたりで話したいことがある』と書かれている。改まって何だろうと思いつつも、『メールじゃ駄目か』と返信する。
 カバンに携帯をしまうと、間宮が声を掛けた。
「時間は大丈夫ですか」
「昼からなんで今から帰れば余裕」
 にこり、と間宮が笑んだ。
「帰りますか」
「うん」
 間宮は以前来たときのように見送ってくれた。違ったのは、キスをしたことだ。恋人同士みたいだなと思ったけれど、相沢はあえてそれに抗議するようなことはしたくなかった。
 外に出ると朝の空気が心地よかった。何度もこういう朝を迎えるのかもしれないことを、相沢は少し幸せに思った。

 5

「こんにちは」
 この日は、たまたま休日が重なり、間宮が相沢の家に来た。いつものようにプライベートでかかってきた電話で、行ってみたいと間宮が言い出したからだ。相沢の部屋は単身用のマンションで、さほど広くもない。築年数が浅いことだけが救いのような、雑然とした部屋だった。
 片付けだけはしたつもりだったが、居室が八畳あるとはいえ、いかんせん狭いのだ。
「あんたホント物好き」
 あきれながら、間宮を居室に案内する。南向きなので、正面にある窓からは光がさんさんと差し込んでいる。
 間宮はドリンクを手土産に持ってきていたのでありがたくいただいた。
 ふたりがけのソファがあるが男ふたりには狭いので間宮をソファに案内し、相沢はベッドの端に座った。
「緑がある」
「ああ、パキラ?」
 窓側の部屋の隅にある植物を、間宮が見ている。
「意外です」
「こういう仕事してると、帰宅したら日が落ちてることがざらだから、帰宅してなんか気持ちが上がるものがほしいと思ってさ、買ったんだよね。水やるのが日課。枯らしたくない。これ見て生きてるなあって実感できるから」
「そうなんですね」
 間宮は笑顔だ。
「あなたがそういうものを大事にしていることを知れて嬉しいです」
「普通だろ。誰だってそういうものはある」
「確かにそうですね」
 相沢は間宮を改めて見つめる。ジャケットはきちんとした黒だったが、デニムを合わせてカジュアル感を出している。そしておそらく、自社ブランドのものだろう。
 対して相沢は、平日は自社のブランドではあるが、比較的楽な格好をしていた。カーキのパーカーに、ワイドなデニムで身体のラインが出ない、ゆるりとした格好だ。
「今日休みだよな?」
「ええ、そうですよ。あなたと休みが会うなんて嬉しいですね。こうしてデートもできますしね」
「デート? だからそんな格好してるのかよ」
「何かおかしいところでも?」
「いやおかしくはないけど、デートだとは思ってなかった……。対照的だなって思って。俺とあんた」
 間宮はデートを意識して、相沢は休日を意識した。その結果が、ふたりの格好だった。
「まあいいや。飲み物もらう」
 間宮が持ってきた袋を開けると、箱の中に瓶入りのストレートのジュースが六本、入っていた。
「普通にペットボトルとかじゃないとこがあんたらしい」
 相沢は笑いながら、りんごのジュースを取り出す。多分相沢でも聞いたことのある銘が入っているし、それなりに値段がするものなんだろう。
「おいしいものなので、是非あなたと味わいたいと思って」
 蓋を開けて飲み物をあおると、甘いけれどさらっとした味わいの液体が喉を通り過ぎる。
 なるほど、確かにこれはおいしい。
「どうです?」
「うまい」
「良かった」
 間宮は嬉しそうだ。
「あんたは飲まねぇの?」
「あとでいただきます」
 そういえば、と思い相沢は携帯を見やる。先日高校時代のクラスメイトからメッセージをもらって、会う約束をしたのだ。
「あのさ、夕方約束があるから」
「え?」
「だから約束。高校のときの同級生と会う約束してんの」
「そうなんですか……今日は一日あなたを独り占めできると思っていたのに、残念です」
 間宮が相沢へと手を伸ばし、腕を捕まえる。自身の下へ引き寄せる間宮が何をしたいのか、相沢にはすぐ分かった。でも以前みたいな抵抗はしないで、キスを受け入れた。
 相沢の唇の感触はいつも優しい。
「逃げないですね、最近」
「もう慣れた」
 ふふっと間宮が笑う。間宮はそのまま相沢をソファに座らせる。座れるが、狭いためふたりの距離は間近になる。
「近いな」
「このまま押し倒したいです」
「さすがにそれはちょっと」
「はい、分かってます」
 間宮は相沢をそのまま抱きしめる。分かっているけれど、間宮は女じゃない。自分より背が高いし、がたいもいい。けれど抱きしめられて、少し安堵するのは何故か。
「あなたが心を許してくれるようになってくれたので、私は幸せです」
「そっか」
 男同士で何故こんなことになったのか分からない。付き合っているわけでもない。でもこの関係は居心地がいいと感じるようになった。
 間宮の触れ方にも、抵抗は感じない。ただただ安心が胸の中に広がる。
「最初からあんたは俺を甘やかしてるよな」
「そうですか?」
「そうだよ」
 間宮は相沢の髪に触れている。
「なんか映画でも見ようか」
 相沢が提案すると、間宮は相沢を抱く手を解いた。
「あなたと過ごせるならなんでも」
「はいはい」
 動画配信サービスを契約しており、テレビで見られるようにしてある。相沢はテレビをつけて、映画を選ぶ。
「映画はよく見るんです?」
「時間つぶしに見るだけ。趣味とかもあまりないから」
 といっても、最近はあまり見ることがなかった。なので週間ランキング一位から十位の中で、適当に選ぶ。しかし恋愛ものは避けて、家族ものを選んだ。
 映画が始まると、間宮は真面目に画面を見始めた。相沢は煙草を取り出し、火をつける。
 突然、今まで気にしなかったことが気になった。
「あんた、煙草吸わねぇの」
「吸いませんね」
「俺吸ってるけど、平気?」
「煙草は正直好きじゃないですが、あなたが吸っているのを見るのは好きです」
「なんでだよ?」
「あなたが男前だから」
「なんだそれ」
 相沢には意味が分からなかった。紫煙を吐き出し、灰が落ちないように煙草を灰皿へ持って行くと、その手を間宮が掴み、唇を合わせてくる。
 入り込んでくる舌に相変わらず応えてはいないが、間宮はそれでも相沢が抵抗しないことに満足そうだった。
「苦いですね」
「そりゃそうだな」
 間宮は相沢の手から煙草を奪い、灰皿に押しつけて消してしまう。
「あ、ちょ……」
 もう一度唇が押し当てられ、抗議の声も途中になった。近い距離で触れあって、少し息が上がりそうだ。
「こういう攻防ができるので、楽しいです」
「あんたなぁ……」
「触っていいですか? 触りたい」
 間宮の手が相沢のパーカーをめくり上げ、デニムの前をくつろげる。
「ちょ……と、待て」
 下着の中に、手を入れられた。本当に間宮は時々強引だ。
 さすがに目にあまるものがあったので間宮の腕を掴んでやめさせようとしたが、力が入らない。巧みな手の動きに、続きを求めてしまうのは男として仕方ないと思う。
「もう……」
 諦めて、快楽に身を委ねる。
「……あ」
 つけたばかりの映画はすでにストーリーが分からなくなりつつある。相沢の口から漏れる喘ぎを無視して、映画は淡々と進んでゆく。
「下着……汚れる……」
 かろうじてそのことを訴えるが、間宮は手を緩めない。正直、間宮は上手い。だから流される。
「いいじゃないですか、このままでも」
 意地悪なセリフを吐いて、間宮は笑う。
「出る……って、……」
 結局我慢できずに吐精する。身体が少し震えるのを感じる。
(気持ちいい……)
 間宮の手と、下着を汚してしまった。そして快楽のあとは、流されてしまった自分に自己嫌悪だ。
「ホント悪趣味……」
 そう言うと、間宮はそうですねと答え、ポケットからハンカチを取り出した。そしてなんのためらいもなく相沢の下着や肌についた汚れを拭き取る。
「おい、ティッシュあるから!」
「ハンカチなんて、洗えばいいだけです」
「ティッシュなら捨てるだけだろ」
「いいんですよ。ティッシュの場所わからないですし」
 相沢はそういう問題ではない気がしたが、立ち上がり、間宮からハンカチを奪い取った。
「着替えて、洗ってくる」
「ハンカチはそのままでいいですよ?」
「よくない」
 間宮はそのまま汚れているのも気にせず、ハンカチをポケットに入れて持って帰りそうだった。さすがにそれはジャケットが汚れてしまうし、何より相沢がいたたまれない。
 着替えをチェストから取り出し、洗面所で汚れたものを洗濯乾燥機に入れた。着替えて部屋に戻ると、間宮は平然とジュースを一本開けていた。
 呆れを通り越して感心してしまう。
「あんたさ……」
「はい?」
「自分はいきたいとか思わねえの?」
 いつも自分ばかり射精させられている気がした。しかも自分に触っては来るが、触ってほしいとは言わない。
「思わなくもないですが、別に些末なことです」
「些末か?」
「はい、どうでもいいことです」
 相沢は逡巡したが、あえて狭いソファに戻ることにした。座って、間宮の飲んでいるジュースを奪って口をつける。
「あんたのそういうとこ、よくわかんねえ。普通だったら、俺にフェラくらいさせそうだけど」
「あなたがしたいなら嬉んで受け入れますけど、そうじゃないでしょう? 私とあなたは恋人同士ではないし、あなたを触ることが許されていることで充分ですよ。今はね」
 今は、という言葉が多少気になった。しかし相沢はそれを追求することはしなかった。
「あんたのせいで映画よくわからなくなっちまった」
「最初から見ます?」
「いや、このままでいいよ」
 その後は間宮と一緒に、素直に映画を見た。出だしがよくわからなかったなりに楽しんで過ごし、約束のある一時間前に間宮は帰っていった。
 相沢の額にキスを残して。

 6

 約束の時間は午後六時だった。相沢は田舎の出身で、約束の相手は地元にまだ残っているらしいが、今日はわざわざ街中まで出てきてくれるらしい。そうまでしてしたい話とは何なのだろう。しかも、高校のときの同級生ということ以外のつながりがない。
 相沢は五分前には約束のカフェについていたが、相手は約束の時間を少し過ぎた頃にやってきた。
「ごめん、久々なので迷ってしまった……」
 謝りつつ、コーヒーのカップをテーブルに置いて、彼女は席に座る。船越エリカ。高校のときの同級生で、三年のときだけ同じクラスだった。ショートの髪がエリカのキリッとした顔立ちによく似合っていた。
「ここ、コーヒー美味しいよね?」
「俺は初めてきた」
「そうなんだ。今服屋の店長さんなんだって?」
「そうだよ。船越は?」
「私は地元の観光協会の事務員さん」
 ふふ、と笑うエリカは美人だ。高校のときはなんのつながりも持たなかった相手がこういうふうに近づいてくるのには、なにか裏があるのだろうと思う。話を終わらせて、早く帰りたい。
「話って何?」
 さっさと話を切り出すと、エリカは少し呆気にとられたようだった。
「あ……うーん、ごめんね。忙しいのに、時間作ってもらっちゃって」
 エリカはコーヒーのカップの縁を、意味もなく触っている。言い出しにくいことなのだろうか。
「まずは、これ、受け取って欲しいの」
 エリカはかばんから一通の手紙を取り出した。封書はしっかり糊付けされている。
「なんだこれ?」
 問うと、いいから、と受け取るように促される。手紙には宛名も差出人も記載されていない。しばし弄んで、相沢は持っていたボディバッグに手紙を突っ込んだ。
 エリカの表情が、ホッとしたようにほころんだ。
「帰って、読んでほしいんだ」
「船越からってわけじゃなさそうだ」
「……うん。裕介くんから」
 裕介。ガン、と頭を殴られたような感覚に陥る。まさかこんなところでその名前を聞くことになるとは思わなかった。
「裕介くんと私、家が隣同士なんだけど、親が仲いいだけで、別に仲良くもなんともなかったんだ。高校のときもそうだった。でも高校卒業して裕介くんが病気してから、よくお見舞いに行くようになってさ。高校のときは楽しかったなあって、よく言ってた。病気が重くなっていって意識が朦朧としはじめてからも、時々高校の頃のときの話をした。その頃は相沢くんの話ばっかりだったよ。相沢が教科書忘れたとき見せてやったんだけどあいつ授業全然聞いてなくって、とか。もうそんなことばかりで……」
「……」
「高校のときがそんなに楽しかったんだなって最初は思ってたんだけど、そうじゃないって途中で気づいた。相沢くんのこと好きなのって訊いたら、うんって、裕介くんは言ってたよ」
 エリカの声が、頭の中で反響している。
 卒業式の日、俺に告白した。もう会わないって、言った。覚悟をして同窓会に行ったのに、四年も前に亡くなっていた。
 その彼が、今ここで俺の前にしっかと立ち現れようとしている。
「手紙は、病室の床頭台の引き出しに入ってたらしい。誰宛かわからないから開封しようもなくて、私が預かったんだ。でも多分、……相沢くん宛だと思ったから」
「やめろ……」
「え?」
「聞きたくない……」
 裕介のことなんて聞きたくなかった。あいつのことは、あいつの口から聞きたかった。でももう、それもできない。
「帰る」
 相沢は席を立った。呆気にとられているエリカをおいて、そのカフェを出た。それからどうやって自宅まで帰ったのかを、相沢は覚えていない。

 帰宅してそのままベッドに倒れ込んでいたらしい。
 うつろな意識の中に、携帯の着信音が聞こえてくる。誰からだろう、と思ったがどうでも良かった。バッグの中に入っていた手紙は当然のことながら開くことができなかった。
(どうしよう……)
 相沢はテーブルの上の灰皿を見やる。吸いさしの煙草があるのを見て、とてつもなく苦しくなる。昼間、間宮が消した煙草がまだそのままだ。
(間宮に会いたい……)
 今どうしても、間宮にあって全てを打ち明けたい。そして、楽になりたい。
 高校の頃の思い出も、告白されたことも、亡くなっていたことも、全て打ち明けて、そして許されたかった。間宮に許されれば全て解決するような気がした。
 けれどそれは自分が楽になりたいから、間宮の気持ちを利用しているだけではないのだろうか。
(それは駄目だ……)
 間宮は優しい。きっと全てを話して泣きつけば、慰めてくれるに違いない。でもそれでは駄目だ。きっと間宮はいいと言ってくれるだろうが、間宮のことは利用したり傷つけたりしたくないのだ。
 携帯がもう一度着信を知らせる。ポケットから携帯を取り出した。間宮だった。
「……もしもし」
 カーテンを締め忘れた暗い部屋。間宮から連絡が来るということは、一体今何時なんだろう。
『こんばんは。約束は終わりました?』
「…………」
 言葉が続かない。でも、ちゃんと言わなければ。
「ごめん……」
『はい? ……なにかありましたか?』
 訝しげに、間宮が訊いてくる。
「ごめん、駄目なんだ。……ごめん」
『ちゃんと説明してくれなければわかりません。何を謝っているんですか?』
「あんたとプライベートで会うのをやめたい」
 言い切った。電話の向こうは、しん、と静かになった。それ以上相沢が言えることは何もなかった。
 これ以上一緒にいたら、全部洗いざらい話してしまうに違いない。だったら、その前に自分から関係を断ち切ろうと思った。
「ごめん……」
 本当は間宮と一緒にいる時間が嫌いじゃなかった。たわいもないやり取りをするのは楽しくて好きだった。
 本当は別離を望んでいるわけじゃない。
『……あなたはそうしたいんですね?』
 静かに、でもしっかりと確かに、間宮が言った。
「そうしたい」
 だから相沢もよどみなく答えた。震えそうな声を抑えて、きっぱりと言った。
『……わかりました』
 そこで相沢は電話を切った。
(間宮に会いたい……)
 本当はそう思いながら、携帯を放り投げた。

 その日から間宮からのプライベートの電話はなくなった。まるでなにもなかったように、あっさりと関係は解消された。
 裕介の手紙はまだ開いていない、怖くて開けないままだ。何が書いてあるのか怖くて封を切れないのだ。開こうと思う日もあった。でもハサミを手にする前に、また今度にしようと諦める。
 間宮とは、あの日以来まだ仕事でも会っていない。会ったら今までどおりに振る舞うことができるか自信がなかったが、どうにかしなければならない。
「店長大丈夫ですか?」
 店員の九条が相沢に声をかける。
「大丈夫、大丈夫」
 相沢は顔色が悪いのを心配されていた。
「店長、休んだほうがいいですよ」
「大丈夫だって」
 九条は心配性だ。ただ、ここ最近食事が取れていないのは確かだった。手紙の存在がストレスになっているのだと思う。
 服をたたみながら、店内を見て回る。今日はさほど客が多くないため忙しくはないが、忙しくないということは、余計なことを考えてしまう隙きができるということだ。
(最初から間宮は優しかった……)
 ホテルに行ったとき、泣かせてくれた。それで救われたような気がした。それで再会もしなければ、そのまま忘れてゆくことができたかもしれない。でも親友の影を連れて間宮が現れた。
(裕介のことは、間宮のせいじゃない……)
 間宮はいつでも優しく、自分を扱ってくれたではないか。受け入れてくれたではないか。
 考えても考えても、間宮が恋しい。
(仕事しよう……)
 相沢はフィッティングルームに向かうと、足元がグラグラしていることに気づいた。
(あれ……なにかおかしい)
 気づけば周りのもの全てがゆらゆら揺らいでいた。
 相沢の意識は、そこで途切れている。

 気づいたら横になっていた。四角いマス目の天井、陽が入ってくる窓、パリッとしたリネン。一瞬どこにいるかはわからなかったが、館の医務室だということに気づいて、ガバリと起き上がった。
「仕事!」
「ちょっと相沢さん、いきなり起きないで!」
 館の事務員がびっくりしたように声をかけてくる。
「目覚めました?」
 事務員の後ろから背の高い男が顔を出す。間宮だった。
 何が起こっているのか理解できなくて、相沢は呆然としている。なんだか頭が痛い気がするが、気のせいだろうか。
 間宮は大きなため息をつく。
「本当に心配させて……あなたって人は」
「相沢さん店舗で倒れて什器で頭打ったんですよ。まだフラフラします?」
「いや……多分、大丈夫」
 めまいは少し残っているが、横になっていたためか前ほどではなくなっていた。
「大丈夫じゃないです。病院に行っていただきます」
 間宮が腕を組んで立っている。
「でも、仕事……」
「あなたが倒れた時点で穴は空いてます。九条さんが頑張って対応してくれたんですよ。あとでちゃんとお礼を言ってください」
「……すみません」
「荷物は持ってきてますから、このままあなたは病院へ行って帰宅です。私は店舗のヘルプに入ります」
 まさか倒れるとは思わなかった。間宮や九条に迷惑を掛けて、何をやっているんだろう。
 間宮と医務室から出て、タクシー乗り場へと向かう。そこに行くまで、間宮は全く喋らなかった。
(怒っているだろうな……)
 そう思いながら、待っていたタクシーに乗り込む。
「仕事が終わったら、あなたの家に様子を見に行きます」
 そんなことを言われるとは思わなかった。しかし何も言葉を発することはできない。そのままタクシーが発車してしまい、相沢はため息をついた。
(迷惑かけてばかりだ……)
 背もたれに身体を預け、相沢は瞳を閉じる。

* * *

 7

 病院で病名は特に告げられなかったが、おそらく過労だろうということで、点滴を打って薬をもらった。少し安静にしているように、とのことだったので、帰宅してからベッドに入った。めまいはもうないが、明日は仕事に出るつもりだったので、大事をとる。
 気づけば眠っていて、インターホンの音で起きた。
(そういえば、来るって言ってた)
 のろのろと起き上がり、ドアを開ければ案の定間宮が立っていた。その顔に笑顔はない。
「こんばんは。上がらせていただきます」
 そう言って間宮は室内に入った。相沢はそんな間宮に抵抗する気力もなく、コーヒーをいれるためにお湯を沸かしにかかる。
「飲み物はいいので座ってください。仕事の話です」
「……はい」
 相沢は飲み物を準備するのをやめ、素直に居室のソファに座る。間宮はソファには座らず、近くに立って話し始める。
 相変わらず間宮は笑顔を見せない。
「病院にはいきましたか?」
「はい。……多分過労だろうと、点滴を打ってもらいました」
「わかりました。明日の仕事ですが、あなたのシフトは有給とするので休んでください。私が代わりに店舗に業務に入るので、心配はいりません。あなたはしっかりと身体を休めてください。また、もし明日も様子がおかしいようなら別途私に連絡をください。ヘルプの人員の調整をします」
「はい」
「そしてここからはプライベートの話です。私は怒ってます」
 はっきりとした言い方に、相沢は少し驚く。こんなふうに怒りを現す人なんだなあということを、改めて知った。
「私に向き合ってくれるとあなたは言いました。先日の電話でのことも、突然でしたがその結果と受け止めました。高校時代の同級生と会うとおっしゃっていたあとなので、そこでなにかがあったんだろうとは思いました。あなたが私ではなくその同級生を選んだのかなとも思いました。その謝罪かと受け止めていたんです。でも、そうじゃないんですね?」
「…………」
 相沢は、言葉が出ない。
「なんでそんなにぼろぼろなんですか? 本当に過労なんですか? どうして倒れるような事態に陥ったのか、ちゃんと話してください」
 間宮は持っていた荷物をおろし、ソファに近づいて相沢の顔を覗き込んだ。
 間宮と向き合うということはどういうことだろう。間宮との関係を絶とうとしたとき、それは間宮に縋りつかないことだと相沢は思っていた。でも結局迷惑をかけた。心配をかけた。
「ごめん……」
「その言葉はもういらないです。いちから話せますか?」
 相沢は間宮にすがりたいと思っていた。何もかもを吐露して、間宮に許されたい。そしてその思いはきっと愛ではないのだと思っていた。
 でも、ずっと間宮に会いたかった。
「いいのかな……?」
 もう頭の中が、間宮でいっぱいだ。
「俺は全部話してあんたに許されたいと思ってる。でもそれでいいのかな……?」
「あなたが話さなければ、何も私には判断できません。だから、話してください」
 間宮を見上げたまま、相沢はギュッと決断するようにこぶしを握る。
「あんたに初めて会ったとき……ホテルに行ったとき、同窓会があったんだ。同窓会では、高校生のときの同級生が死んだことを聞かされた。四年も前に亡くなってた。俺は、親友に会うために同窓会に行ったんだ。卒業式のときの告白に、返事をするために」
 間宮の姿が涙で揺らぐ。
「卒業式の日、もう会わないっていったんだ、あいつ。俺が好きだからもう会わないって。裏切られた気分だった。今までもこれからもそいつとはずっと親友なんだろうって信じて疑わなかったから。でも向こうはそうじゃなかった。そして俺は、共通の友人たちと連絡を断ったんだ」
 涙が頬をつたっていく。
 間宮が頬の涙を服の袖で拭ってくれる。
「同窓会で何らかの答えを出せるって思ってたのに、あんまりだろ……。それでもあんたとホテルで過ごして、一度は平静を取り戻したんだ……。でもこの間、親友の幼馴染に呼び出された。幼馴染も同級生だったんだ。それが、つい先日のことだ。病気だったって、そのとき聞いた。そして親友からの手紙を渡されたんだ。でも……俺、開けられなくて。開けなくちゃって思ってたけど、まだできなくて……」
 間宮はこちらを見つめている。先程までのように、無表情ではない。
「今、開けてみましょうか」
 間宮が提案してくれる。
「でも、怖いんだよ……」
「私が一緒にいます。だからできますよ」
 間宮は相沢に、手紙を取り出すように命じた。ボディバッグに入れっぱなしだった手紙を、相沢は取り出す。
 しっかりと糊付けされているため、ハサミも持ってくる。
「開けましょう」
「……うん」
 相沢は思い切って手紙にハサミを入れる。中の手紙を取り出すときは、手が震えていた。
「どうしよう、手が動かない」
 相沢はたたまれた手紙を開くことができない。緊張でこわばっていて、手がうまく動かないのだ。そうしたら、間宮はソファの隣に座り、相沢の手に自らの手を添え、手紙を一緒に開いてくれる。
 手紙の本文は、たった二行だった。
『相沢は元気かな?
 健康に気をつけて、幸せに過ごしているといいな』
 相沢はこらえていたものが一気に弾けたような気がした。
 そうだ。あいつは優しいやつだった。自分のことより人のことばかり心配してた。きっと俺にもう会わないっていったのも、俺を困らせるまいという優しさだったに違いない。あの告白は、あいつのちょっとしたワガママだったんだ。
 それなのに俺は、裏切られたと感じて、闇雲に怖がって。
「……っ」
 嗚咽が漏れる。間宮が肩を抱いてくれる。
「よく頑張りました」
「……うん」
 手紙は恨み言なんぞではなかった。自分の幸せを祈ってくれていた。
「あんたのおかげだ……」
「いいえ、あなたが頑張ったんですよ」
 間宮は相沢をねぎらった。でも相沢は、間宮がいなかったら手紙を開くことができなかったということに気づいている。
 間宮は優しい。強引に見えるけれど、相沢が本当に嫌がることはしない。間宮に肩を抱かれて抱く気持ちは安堵だった。相沢と一緒にいることには、「嫌いじゃない」という言葉を使ってしまう。けれど、きっと、本当は。
 相沢の嗚咽が落ち着くのを待って、間宮は相沢から離れ、立ち上がろうとする。
「……待てよ」
「はい……?」
「俺、まだあんたに言わなくちゃいけないことがある……」
 首を傾げて、間宮はソファに座り直した。
 相沢は、勇気をもう一度振り絞る。
「あんたともうプライベートで会いたくないっていう言葉、撤回したい。……あんたに依存しそうで怖かったんだ。親友を拒絶した俺が幸せになっていいのかわからない。本当にこの答えでいいのか自信がない。でも今思っていることを正直に言う……」
 間宮は静かに相沢の言葉を聞いている。
「あんたが欲しいよ」
 間宮は目を見開く。相沢は自分の気持ちをもうごまかせない。
「俺はあんたが欲しい」
 相沢は初めて自分から間宮に抱きつき、キスをした。

 たどる指が、唇が全身を支配していく途中で、相沢は少し泣いた。過去に間宮とは戯れに手淫と口淫をしたことがあるが、そのときはこんな切ない思いはしなかった。
「怖いですか」
 間宮が挿入前に相沢に問うた。
「さすがに怖いな」
「やめますか」
 間宮の真剣な表情。けれど相沢は決めていた。
「やめねえ」
 自分に覆いかぶさっている男のうなじに手を伸ばし、引き寄せてキスをする。
(今はとにかく)
「近くであんたを感じたい」
 間宮が「惚れ直しました」と笑んで、自信のものを相沢にあてがう。
 間宮が入念に準備をしてくれたせいか、思いのほか楽に挿入できたと思ったが、奥まで入ってくる感覚で苦しくなる。目一杯後孔が広がっているのを感じ、激しく動かれたら切れるかも、と相沢は思った。
(でもいいや)
 生理的な涙で視界がにじむ。
「どうしよう」
 間宮がつらそうに笑う。
「最高に幸せで気持ちいいです」
「それは、光栄だな」
 相沢の吐息混じりの声。間宮は相沢の唇を指先でなぞる。
「あなたは苦しそうですね」
「いいんだって。さっきも言ったろ。近くであんたを感じたいんだよ」
「…………」
 間宮は目を細め、相沢の唇に自分のそれを押し当てた。
「っ、あ……」
 間宮が律動を開始すれば、自然と声が漏れた。けれど隠そうとは思わなかったし、隠す余裕もなかった。
 時々与えられるキスに、幸せを感じた。苦しさなんてもうどうでも良かった。

 翌朝早朝に起きると、間宮が隣で相沢に朝の挨拶をした。今日はベッドで相沢の寝顔を見ていたらしい。
「……はよ」
 かすれた声で返事を返す。結局間宮は帰宅することなく、相沢の部屋に泊まった。ベッドはセミダブルだったので、二人で寝られないほどではなかった。
 間宮は相沢の頬に軽くキスをする。
「昨晩は無理をさせました。気分はいかがですか」
 間宮が訊いてくる。相沢は上半身を起こすと、素肌から毛布が滑り落ちる。自分が裸だったことを思い出した。
「気分は悪くないけどさ」
 時計を見やると、午前八時近くだった。
 間宮も上半身を起こし、相沢を背中から抱きしめる。
「あなたとの朝寝が叶いました」
「ああ、……そんなこと言ってたな」
 相沢はあくびをする。
「なんかすごくよく寝た……」
「それは良かった」
 首元に間宮がキスをする。身体はだるかったが、気持ちは清々しかった。
「でも、もう一度寝るわ……さすがにしんどい」
 間宮の腕から抜け出て、もう一度布団に潜る。心理的な面ではとても満たされていたが、調子が悪いところに初めて男同士でセックスをしてしまったことを、体調的な面では悔いていた。
「つらいですか」
「あんたと初めてやるんだったら、もっとちゃんとやりたかった」
「ちゃんと?」
「体調の良いときにしたかった」
「ああ……」
 間宮が笑う。
「いいじゃないですか、またすれば」
「そうだけど」
 間宮が身体を屈めて、キスをする。舌が差し入れられれば、相沢はそれに応える。何度も唇を重ねていると、昨日の余韻に流されそうになる。間宮の手が胸元におりてきたあたりで、相沢は言った。
「間宮マネージャー、そろそろお仕事の時間なのでは?」
 今日は間宮が相沢の代わりにシフトに入るといっていた。今日はオープンから店舗に入るシフトにしていたはずだ。そろそろ家を出る準備をしないと少し時間的に厳しい。
「ああ、朝から店舗へ行くんでした」
「マネージャーが遅刻するのはどうかと思います」
「……もう少しあなたといたいのですが」
 名残惜しそうに間宮が言うので、相沢は少しおかしくなって笑ってしまった。
「あんたが前言ったと思うんだけどさ、先は長いんだよ。気持ちはわかるけど、今はすべきことをしようぜ」
 間宮は微笑んで相沢から離れると、ベッドからおりて自身のシャツを羽織る。
「シャワーを借りますね」
「どうぞ」
 間宮が浴室へと向かうのを見送って、相沢は窓に手を伸ばし、カーテンを開けた。
「まぶし……」
 光が容赦なく入ってくる。いつもは朝、積極的にカーテンを開ける気にはならないのだが、今日は開けたくなった。身体は相変わらずだるいが、気持ちは前向きだった。
 ここにあるのは、妥協じゃない。自分が欲しいと思って、逃げずにつなぎとめたものだ。
 自分は信じたい、これから先のことを。
 今まで信じられなかった明るい未来が、そこにはあった。

 了